サラワク先住民の村でホームステイ


 ピースボートの観光オプシオンの売りは、現地の人達とかNGOの団体との交流会なんです。 私は、44回はなるべく交流会に参加することで 見聞を広める事にしました。

  朝8時半、岸壁からバス2台でサラワクに。サラワクはマレーシアなので、ムアラからマレーシアに出国しなければならない。これが大変な仕事で、10時20分ころ国境に着いたのに、ブルネイ(私たちは昔ボルネオと云っていた)出国は12時を過ぎてしまう。とにかく厳しい。

  マレーシアの入国はいたって簡単で、バスから降りずにスタッフがパスポートを集めるだけで、スタンプを押したら返してくれた. このいい加減さが帰りには酷い事になるのである。
  昼食は1時45分ころ。
  ミリという街の、ダイナステイホテルのレストランで中華料理だった。

 卵スープ、鶏の丸焼きの切ったもの、鯛の姿煮、八宝菜のコース、豆腐料理、まあまあだったが,鶏とスープは空きっ腹にこたえる美味しさだった。

  ここでムアラのバスからマレーシアのバスに乗り換えてみて、ブルネイの金満家ぶりとマレーシアの貧しさに驚嘆。さっきまで新品同様のバスだったのに、こんどはオンボロバスで冷房は、冷やすか,止めるかで、調整はきかないのだ。
  しかも、頭の上にある調整機能は半分以上壊れていて, 穴からじかに冷風が吹き付ける。私は小さいタオルを突っ込んで防いだ。現地ガイドが紙をテープで貼って、やっとなんとか我慢出来る状態になった。
  隣席は梶川渉君で今年二十歳、今を流行のフリーター.髪を茶色に染めた好青年だが割合無口。やたらに喋られるよりは良い。4時頃オイルパームプランテーション到着。

  一面の油椰子の畑は見るものを圧倒する。2200ヘクタールの畑を200人くらいで管理しているので、仕事はかなりきついらしい.価格の暴落で広くしないとやって行けないと云う。
  だが、もう経済的に手入れが行き届かなくなってきているので、所詮何年か後には衰退の一途をたどると思われる。荒れた土地がどうなるのかを考えるのは辛い。日本が、安ければいいと椰子油を買い叩いた結果も、大きな原因だときけば尚更だ。

  労働賃金の低さには、仕事のきつさとともに唖然としてしまう。生育に3年半かかるが、そのあと25年間、月に2度づつ収穫が出来る。その実は20キロ以上あるので50キロで約1トン、5ドルにしかならない.5トンから1トンの油が取れるが、24時間以ないに処理しなければ劣化してしまう。
 そのため、 ミルは24時間操業で交代で働くらしいが、あまりの低賃金に今は殆どの労働者がインドネシア人の出稼ぎで、マレーシア人はもっと賃金の良い仕事についていると云う。

  ロングハウスに着いたのが7時頃でもう暗かった。長いとは聞いていたが、外観ではまるで船のよう。入り口で、北海道の牧場経営者加藤さんが、マータイ袋に入れた子豚の喉を掻ききって歓迎の儀式が始まった。
 長い槍の先に付いた刃で頸動脈を3度程ごしごし切って どばっと血が出るとそのまま高床式の地面に転がし落とした。私達は流れた血を踏まないようにして、まだ苦しそうに袋ごとうごめく豚を横目に見ながら靴を脱ぐ。

  靴は麻袋の中にぶち込まれた。明日探すのが大変だ。5メートル近く在ると思われる廊下はアンペラが敷いてあって,歩くとひんやり気持ちが良い。真ん中と両側を隔てるように、一定の間隔でアイアンウッドの柱が天井を支えている。
  廊下の右側を何か捧げ持つ先達のおじさんのあとに、キンキラキンの冠と民族衣装の男が一人、同じように着飾った女が3人、踊りながら続く。琴のような形の厚い板に仕込んだ、ドラのようなものを男2人が持ち、もう一人の男が叩きながら歩く。まことに単調でしまらない行列である。
  私達は彼らのあとから、だらだらと疲れた身体を引きずってついて行く。
  廊下にはそれをみるためか、私達をみるためか、ハウスの住民がひっそりと壁に寄りかかって座っている。老若男女入り交じって、ただひっそり。これを歓迎といえるのだろうか。
  でも、時々何人かの男女が、歩いている私達を遮り、ライスワインという強い酒を、小さなグラスにほんのちょっぴり、お屠蘇のようについでくれる。また少し行くとちょっぴり、また、また、またと、歩き疲れた身は、飲めば飲む程欲求不満になるのである。

  なんせ廊下は長い。300メートルはあるというのだからガソリン不足の私は倒れそう。5メートルはあろうと云う間口の家が48軒並んでいるのだから、はしの方は霞んでいる。  
  それを奥まで歩いてまた引き返すのは並大抵の努力ではない。私はついに低い台の上に座りこんで足を投げだしている、太ったおばさんの隣にへたりこんだ。
  誰かが、私のカメラでその光景を撮ってくれたので、おばさんに見せると、喜んで笑う。
  声もなく笑って台の上にいる3、4人にまわして見せた。皆嬉しそうにする が何も言わない.とにかュ静かなのである。その内歓迎の挨拶が始まったが,田舎人らしくその挨拶の長い事.あの殺した子豚が煮えるまでやってるのかなとぼんやり考えていた。

  夜8時ころやっと夕食になる.チキンカレー、3種類くらいの葉っぱの煮物、あの子豚もカレー味で出て来た。カレーも何も全部塩味だが概して美味しい。残念ながら疲れ過ぎて味見だけ。若い連中は良く食べていた。
  私は7号の部屋にお世話になったが、4567が歓迎用の部屋で原則としては、そこでトイレを借りる。でもどの部屋でも叩けば開けてくれた。48号でかりた男によれば、電気がついてなくて自分の懐中電灯を使ったそうだ。
  私も7号にトイレを借りに行った.一番手前が一番大きな部屋で,5メートルx6メートルくらいの奥行きがある。ソフアやテレビが置いてあり綺麗である.次が食堂で、5.6人の男達がトランプをしている。食器棚とか椅子テーブルもかなり洒落て見えた。
  台所も広くて冷蔵庫が小さく見える.奇麗なのはそこまでで、その先が廃材で出来た隙間だらけの床で、水場なのか、人間が何人もはいるような、大きな水瓶が幾つも並んでいる。

  ビショビショの板の上を、履物を履いて板囲いのトイレに着く。裸電球の下がった股がるだけの 便器は、瀬戸物で、あいた穴に汚物を流す水が、バケツに入れておいてある。空き缶で汲んで流すのだけど、勢いよく流すのを見慣れている目には、とても侘しい。
  部屋に帰ると、そこの15歳くらいの息子が、ソフアに奇麗な水色の枕を置いて,此処へ寝ろと いう。よほど疲れた老人に見えたらしい。